16 sedici






お天道すらまだ寝ているさなかから動くことになろうとは、思いもしなかった。


イヴァンに言われた時には耳を疑った。
そんな時間に起きるのなんか、孤児院にいた時の早朝清掃以来だ。

(眠い)

と体も心も思っている。
整理現象で欠伸も出るというものだ。
が、ピリピリしている後ろの男の気配を悟って、なんとか欠伸を噛み殺した。気の抜けたため息を吐いて、運転席のイヴァンの部下の顔を盗み見た。気付いてないようだ。よしよし。

「顔見せ中にそんなことしてみろ。はっ倒すぞ」

げ、気付いてた。

「スミマセン、隊長。以後気をつけます」

顔は向けずに謝る。
イヴァンは鼻を鳴らして終わらせた。

あー、空気がなんか重い。

エンジン音と雑踏の音しかないこの空間は、実に座りが悪い。
シートに当たっているところから、体があちこち痒くなって堪らない。
でもまた動くとなんか言われるんだろうと思うと動けず、早くつけと祈るしかない。
昨日のジュリオとはまた違う居心地の悪さに、心中でため息を吐いた。





痒みと戦い疲れてうんざりしはじめた頃、漸く車は止まった。
車から降りる時を狙って腰や背中を掻く。

「おい」

また咎められるかと思ったが、イヴァンは顎でしゃくって道を促した。
先行するイヴァンの後を追う。ドライバーへ振り向くと、出る素振りもなくこっちをねめつけてきた。
それに肩を竦めて暑苦しいスーツの裾を直し、イヴァンの斜め後ろにつく。いつだったか付き人をやることになった時に誰だかに教わった上司を立てる位置だ。
部下になったのなら上司は立てなくてはいけない、ってな。
案内するときも視界を遮ってはいけない。とか、いろいろあったな・・・となけなしの礼儀作法を反芻してついていった先は、でかい倉庫だった。

夏の盛りだというのに冷気が漂うそこは、生臭さも漂っていた。生魚の匂いだ。
まとわり吐くその匂いに、うげ、と吐きそうになる。

故郷は内陸だったから、魚は肉より高くて滅多に食事に出されない。
あっても特定の場所に行かなければ手に入らなかったし、自分も食べた回数は数える程度。しかも残飯というか、まかないで出された奴で、身なんて殆どなかったスープだった。
まぁ、ダシが効いてて旨かったんだけど。

そうか。デイバンは漁港があるから魚の匂いも染み付いてるのか。

人生初の魚市場に行けるのは何時だろうとか考えつつ、倉庫の中へ入っていくイヴァンに続く。
イヴァンのために扉を開けたいかついオッサンが睨んでくるが無視。
扉をくぐると、外にいたオッサン達と同じムキムキなオッサン達がゾロリと揃っていた。

「どうだ、調子は」
「仕事の方は上々だな。だか最近ネズミが五月蝿くなってきた」

イヴァンと、オッサン達の中のリーダーらしい人物が言葉をかわしあう。
聞いているかぎりでは、ここの連中は漁船のクルー、船乗りのようだ。
ただし積み荷は魚ではなく、別のものの様だが。

「おい」

話を聞いていてもきっと分かんねーだろうな。と、さっきの路地よりは生臭さが若干減った倉庫を暇つぶしに見渡していると、イヴァンに呼ばれた。

「なんか食いもん買ってこい」

何かと思えば、パシリかよ。

「いいけど、オレの全財産小銭しかねーぞ」

なにせデイバンに来るまでの路銀は、本当に最低限に近かった。たどりつく直前はジャンからのホットドッグへ衝動的に食い付きたくなるほど食に困っていたくらいで、今は雀の涙しかない。軽食なら買えるが、まともな食い物は望めないだろう。

そう言うとイヴァンは嫌そうに顔を歪めて、

「ああそれで買えるもんでいい。さっさと行け」

と横柄に言い放った。

了解の合図に軽い敬礼をして倉庫を出る。また門番のオッサン2人に睨まれた。

「なぁ、この辺で露店ってどっちにあるんだ?」
「あ?…ああ、あっちだ」

店の場所を聞いたら変な顔をしたが、道を教えてくれた。

「そか、サンキュ」

教えてくれたオッサンに礼を言って軽く駆ける。
指された方向へ進むと、生臭さがより一層酷くなった。込み上げる気持ち悪さを、息を止めて抑えて路地を抜ける。
本部を出た時には薄暗かった空が、いつの間にか明るく街を照らしていた。




「――――……」



朝日の眩しさに目を瞑り、慣れてから辺りを見回す。
ポツリポツリと、店を整えている人がいる。活気にはまだ程遠いが、賑わいはじめている市場だ。


その上をキラキラ黄金色に輝いている空。
そしてその空が地面にもあった。
いや、空よりも眩しく輝いている。目を刺すその光はゆらゆら形を変えて踊っていた。
踊る正体は果てのない水だ。


ドブ川なんて比較にならない、でかくて深い、見たことのない大量の水が目の前に広がって波をたてていた。





これが、海―――――





初めて見る景色に圧倒される。
本当に空に交ざってしまうほど果てが見えない。
これなら先人が世界は平面だと思うのも頷ける。あの水のさらに先に島があるなんて、想像できないだろう。あるならそれは別世界だ。

ぼう、とその光景に魅入っていると、後ろから声をかけられた。


「そこの兄ちゃん!黒服の兄ちゃん」

「ん、あ、?」

我に返ると、近くの露天で下拵えをしているオッサンと目が合った。

「朝はもう食ったか?採れたての魚を揚げたフライサンドはどうだ。安くしとくぜ」
「ん。んじゃ、一個頼む」
「まいどっ」

客を獲得できたことに喜ぶオッサンは、いそいそと魚のフライを揚げ始めた。
その間にもう一度海を眺めて、頭の中が空っぽになっていく気分を味わっていた。
こんなにすげえ光景を今まで見たことがなかったなんて、自分の人生が損していたような気になる。
それだけでもあの街から出たのはよかったってことかな。あそこにい続ければ、こんな景色なんて見ることはきっと一生なかった。

「できたぜ」

フライサンドを仕上げて差し出されるのを、金と交換して受け取る。そのまま海を眺めながら一口かじり・・・・



「うぐっ!?」



イッキにこみあげきた吐き気に、危うく口の中の食べ物を吐きだすところだった。
持っている手が震える。
自慢げに「どうだ。旨いだろう?」と豪語するオッサンの声が遠い。



「ま、」



声が震えてしまった。





マズイっ!!




震えた喉は、心の底からの感想を吐きだした。


ああああ。何だこれ何だこれ。ありえねえ。なんでオッサンはこんなもんをさらっと出せるんだ。客をナメてんのか。
だからこんな信じられないような事を聞いたような、ポカーンとした顔ができんのか。


そしてその表情がみるみる内に怒りを抑えたような笑いに変わる。

「ぉい兄ちゃん…今なんて言いやがった?」
「油のギトギト、パサパサしたパン、下味のされていないフライ……そしてそれを全て覆い隠そうとしている大量のレモン汁…っ」

だがそれはこっちのセリフだ。


「オッサンこそどういうつもりだ!こんな出し方、魚が可哀相だろうがっ!


フライサンドを掲げて、そう罵った。

「あああ、勿体ねえっ 素材はいいのにすげえ勿体ねえ・・・・!!」

魚はうまい。だが人間は素材そのままの味で美味だと思う舌は持っていない。だが調味料がかかっていたとしても、多すぎればさらに受け付けないものだ。

「そ、そんなに言うんなら兄ちゃん作ってみろや!」
「上等だっ! いーか?見てろクソ店主っ」

怒りだか引っ込みつかないだかでけしかけるオッサンの挑戦を受け取って、露店の調理ブースに立つ。
そここにある大量の素材に目を全て通し、手際良く一枚の魚をフライにしてバンズに挟んだ。

「ほれ!食ってみろっ」

ご丁寧に紙包みに包んだそれをオッサンにつきだす。
オッサンはそれを受け取り、訝しげに眺めて齧りついた。
そして、


「う、―――――――旨いっ・・・だと・・・!?」


目が見開かれ、オッサンの背後に雷が鳴る。
ふふんどうだ。ちなみにオッサンが使ったもの以外は一切使ってないからな。
鼻息で笑い、腕を組んでふんぞり返る勝利した自分と、頭を抱えて敗北するオッサン。

「なんてこった…俺の十数年がこんなところで覆されるとは…」
「古い油を使ってんのは妥協してやる。だが調味料の使い方が最悪だ!こんな大量にぶっかけやがって。これじゃ折角の食材を絞め殺してるのと同じだ!」

オッサンからフライサンドを奪い返し、オッサンの敗因をとうとうと語り指さしをつきつける。
自分でも試しにフライを食べる。予想通り、魚の旨みを生かせる塩と胡椒、そして臭みを抑え肉汁と混ざって絶妙な酸味を利かせるレモンがフライサンドを美味なものにさせている。
オッサンは完全に敗北し、ガクリと跪いた。

ふははははは!なんか楽しいぞ。




「――――テメェ・・・・」




は。




「何やってんだこのっ―――――――アホが!!





現れた殺気。そして振りおろされた拳が脳天を直撃する。








イってぇ―――――――っっ!!








いつの間に来ていたのか、背後にいたイヴァンに思い切り殴られ、頭を押さえてうずくまった。








(あ、頭が揺れる・・・・・・・・・・・)



は食になると融通が利かないらしい。
これで本当においしいかは・・・試さないでもらえると助かります←
2010.9.8