35 trentacinque これは怒りだ。 自分は怒りに燃えている。 人の恩人を攫い、危害を加えようとした奴に、鉄槌を加えなければ気が済まない。 誘拐犯に依頼主の居どころまでタクシーを運転させて、そのままそこに乗り込み、殴り込みを仕掛ける事にした。 ジャンは何も言ってこない。 ちらと見ると少し楽しそうにしていたが、金色の目はキレたみたいに若干鋭くなっていた。 なんにせよ止めるものはここにはない。 こんなマネをしでかした奴には相応のことをさせてもらわなければ。 そうしてたどり着いた場所は、庶民には入ることすら躊躇われる豪邸だったがどうでもよかった。 どこかで見たことがある建物なのもどうでもよかった。 むしろ今すぐこの屋敷をぶっ壊して崩落させたい。 そんな物騒な考えのまま、屋敷に踏み入ろうとタクシーを降りて。 「ジャン様!!」 野太いようでやけに高い嬉声に出迎えられた。 そいつは、やけにまるっこい三角形に脚が生えたような人間だった。 キューティクル煌めく、くるくるの金髪が眩しい。 推定女性のそいつはヒラヒラビラビラなドレスを優雅に閃かせて、自分達の―――ジャンのもとへ駆け寄ってきた。 「まああ!まああ!ようこそおいで下さいましたわっ貴男、よくやりましてよ」 「へへへ。ではシニョーラ。約束のものを頂けますかね」 「よろしくってよ」 「たしかに。では」 揉み手をする拉致犯の1人は、使用人からアタッシュケースを受け取り、中身を確認した後、用はないとさっさと帰っていった。 タクシーの運転手も消えている。 あいつら今度会ったらぶちのめす。 「ジャン様、どうぞこちらへ」 推定女も、もはやジャンしか目に入っていないようだ。 メープルの葉を何十枚も束ねたような手でジャンの腕をとり、屋敷に招き入れようとしている。 その事に感情が動く前に、体が動いていた。 パシンと軽い音を立ててジャンと女の接触部分を叩いて離す。 やらかしたって気分はない。爽快な気分が少しあった。 「誘拐犯が何言ってやがる」 手を離されたことに驚いた女が、まん丸の目を半月にして自分を見る。睨んでいるのかもしれない。 面白さなら大した迫力があるが、纏う雰囲気は子豚程度。 こんな状況じゃなければ歯牙にもかけない。 「どなたかしら。わたくしはジャン様だけに用がありますの。お帰りなさい」 淑女らしく丁寧に、キチンと邪険に扱う体で女は勝手口を指差した。 「そっちこそ、うちのボスから離れてくれねーか」 「貴方、わたくしを誰かわかってらっしゃって? 下賤なものが声をかけることも本来は許されなくてよ」 ほうほう。言ってくれんじゃねーか。 「ゲセンで悪かったなぁ。で?そのコウキなご身分の方は、自分が何をしたのかわかってんのか?」 「なんのことかしら」 淑女の顔色が僅かに変わった。 何かしただろうかと本当に分かっていないのか。首を傾げて――――身体ごと横に傾けている。 「誘拐の主犯。しかも自分の街のヤクザを誘拐するなんざ、正気とは思えねーな。一族郎党路頭に迷わせたかったか?」 「なにを言っておりますの?」 女の顔が、再び冷めたように無表情になる。 「わたくしが頼んだのはジャン様を連れてくることだけ。やり方なんて知りませんわ」 まったく関係ない。心外だとでも言わんばかりの女に、また腹の底から黒いものが噴き上げてきた。 何も考えない。何も知らないこいつに、腹が立って、腹が立って。 「お前、拉致られた奴の気持ち、考えたことあるか?」 女に詰め寄ると、なぜか女は後退した。 こっちが前に出れば、同じ分下がっていく。 「不安で、心細くて、何が起こっても理不尽に受けるしかできない。受けた痛みはきっと、いつまでも忘れられない。ずっと苦しめられる。 そういう怖さ、味わったことあるか?」 女の後ろを、石柱が阻んだ。 女の顔の横、石柱へ目がけて拳を延ばす。 石柱が大音量で砕けて、女に欠片が当たった。女がふらふらと横にもつれて、尻もちをついた。 「いま感じた痛みなんかと比べられない痛さを、感じたことあるかよ」 目を丸くしている女を見下ろして問う。 答えなんか必要はない。身を持って分からせる。 「きっかけが何であれ、テメーが作ったことのオトシマエはキッチリ受けてもらうぜ」 女がこっちを振り仰いだ。まだ呆然としているが、その目には光が戻ってきている。 「あ、あなた・・・・・!」 欠片が当たったのだろう場所を手で覆って、女は声を張り上げた。 「わたくしに、手を上げましたわね!」 「ああ?だからどうした」 小爪程の牙を向けて噛みつこうとする女を、鼻で飛ばす。 この女にどれほどの権力があろうが構うものか。 なんだろうと返り討ちにしてやると考えていると、女は顔を紅潮させてまた声を荒げる。 「お、お父様にも手を上げられたことはありませんのにっ」 「はあ?」 何を言ってんだこいつは。今そんなこと言うことか。 というか、その顔はなんだ。なんで嬉しそうなんだ。 マゾか。 怪訝に見つめると、女が俯き、そして何かを呟いた。 「―――――――わ」 最後の一文字しか聞き取れなかった。 なにを言ったのかと気になったところで、女が立ち上がり、詰め寄ってきた。 「貴方、お名前はっ!?」 「あ?」 「」 女は名前を反芻し、そして、キラキラと輝くガラス玉の瞳でこっちを力強く見た。 「わたくし、貴方が欲しいですわ!」 「は?」 ――――――――は? 「わたくし、人に暴力を振るわれるなんて初めてですわ!」 唐突に流れをブった切って気色ばむ女は、今度はこっちに詰め寄って無遠慮に手を握ってきた。 おい。なんなんだ。 「責任を取ってくださいませ!貴方、わたくしの愛人になりなさい!」 「は!!??」 今度こそぶっ飛んだ発言に、こっちが目を丸くする番だった。 アイジン? 愛人!? なんだそれ!!?? 「馬鹿言うな!オレは女だ!」 女が女の愛人になれるか!! 「そんな見え透いた嘘! こんなたくましい方が男じゃないなんて!」 しかし盲目な女は煌めく瞳のまま、つかんだ手を掲げて見上げてくる。 この馬鹿女っ 「これでもいうか!」 考えを改めさせるために、手を振り払って着ているシャツを脱ぎ捨てた。 一切何も覆っていない胸は、胸筋とは違うふくらみがある。普通これを見れば誰だって気付く。 後ろから妙な悲鳴が上がったが、こっちは女を正気に返すことに必死だった。 だが意図に反して、女は「きゃっ」と目を両手で覆い、そして指先の隙間から覗き込んで、再び嬉しそうに顔を歪ませる。 「まぁ!たくましい胸板!」 「だっ!くそ!どうせ貧乳だチキショーメェ! こうなったらマッパになってやるっなればいいんだろうが!」 「――――――ちょっ、待て待て待て!ストップ!らめえええぇ!!」 ただ女を喜ばせるだけだった行為に、さらに逆上する。 ついてるもんがついてないのを見れば女も正気になるとスラックスのボタンに手をかけたところで、後ろからジャンに羽交い締められた。 かなり全力で自分を女から引き剥がしているジャンが、「うわ」と呻く。 一瞬緩んだ力は、すぐにまた強くなって後ろに下がらされ、女と自分たちの間は2mほど空いた。 「止めるなジャン!」 「ももももちつけ!じゃなくておぉ落ち着け!俺も落ち着きたい!!」 なるべくジャンがぶっ飛んでいかないように力を制御して振りかえり、ジャンを見上げると、ジャンの顔が瞬時に逸らされる。 なぜか目線だけでこっちを見つめ、その後ばっと片手で目を覆ったジャンは、かなり切羽詰まっていた。 なんなんだ? なんなんだこれ?? なんでみんな反応が変なんだ。 自分のせいか? ・・・・じぶんのせいか。 ジャンの反応に、だんだん正気に返ってきた。 「ちゃん、服着て・・・」と呻くジャンに頷いて、脱ぎ捨てたシャツを羽織る。 ほっと息を吐いたジャンは、なぜか顔が赤かった。目も泳いでいた。 しでかしたことに気付いて、こっちも顔が熱くなってきた。 やばい。 「・・・ジャン様」 さあっと氷水を頭からかぶった気持ちが全身を廻る前に、後ろから声をかけられて振りかえる。 女は未だに瞳が煌めいたままだった。 げんなりする気分に、だがこの馬鹿女をどうにかしなければならないともわかっていて、心が消耗する。 「ジャン様、わたくし・・・」 「シニョーラ、すまないがあなたの気持ちには答えられないし、こいつを手放す気もないんだ」 胸元に手を組んで添えて、女の目は何かに陶酔したようになっていた。 歯向かうかと思った女は、一体どういう風の吹きまわしか、従順に頷き、「仕方ないのですね・・・」と引きさがる。 なにがあった。 この短時間でコロコロ変わる女の思考回路に、もうついていけない。 色々放棄していいか。 「今回の騒ぎ、相応の処断があると思って頂きます」 ジャンが優しく言い捨てて、淑女はそれを承諾した。 ものすごく腑に落ちない。 一応今回の事件はこれで終わり。後は手打ちの采配のみということか? ジャンが「帰るぞ」と促して歩き出す。その後を着いていき、もう一度女を見た。 女は相変わらず頬を染め、うっとりした眼差しでこっちを見ていた。 半開きになった口が魚みたいだ。ただ、魚というにはその瞳には正体不明の熱い光が燃えているように見えた。 その眼差しをみて、なぜか背筋がゾワリと鳥肌立った。 「ああ、私の地位が・・・」 カポ・デルモンテとその連れが屋敷から姿を消した後、一連の行動を屋敷の中から窺っていた屋敷の主人――ナスペッティ氏は項垂れ呟いた。 財産だけならばいい。地位が落とされることを何よりも嫌う貴族は、娘の失恋の心象を気遣って、父親として娘に寄り添おうとした。 が、なぜか娘はやけに生き生きと、嬉しそうにしていた。 その笑顔は今まで見た何よりも喜色を浮かべている娘に、なぜか父親は近づけないでいた。 「わたくし・・・あのお二方を見ていると、胸がときめきますの・・・・」 ほう、と吐息をこぼして、娘はもう欠片も見えない寄り添う男たちの背中を見ていた。 自分に心を向けて欲しいと思う恋心とは違う。 自分のものになってほしいと願う所有欲でもない。 その姿を。2人の姿を見ているだけで、2人の触れ合いを見ているだけで、何かが、心の中を満たしている。 ありもしなかった想像が膨らんでいく。 「この気持ちは、なに・・・・?」 芽生えた感情に包まれて、恋に恋していた女は、新たな世界へ一歩を踏み出していた。 (女って、ワカラン) |