世界は私に、何も与えない。 何かを得ようとする私に、何も持たないお前には必要ないだろう?と嘲笑い、取り除いていく。 そして、何も残らない。 周りには、何もない。 そのように私を生んだのは、世界の方なのに。 私自身が望んだ訳でもないのに。 そう。 だから私は、すべてのものから奪い尽くしていこうと決めた。 理不尽なこの世界こそ、必要がない。 「おい!大丈夫か?!!しっかりしろ!」 降ってくる怒声と衝撃に、男は目を覚ました。 男は身体がやけに重たいことと、息が苦しく、胸に杭を何本も打たれたような激痛があることに気付いた。 それでも男はその苦痛を表に出すようなことをせず、しかし冷や汗は浮かべたまま声の主を目だけで探した。 「良かった。大丈夫ですか?」 男に声をかけていたのは少年だった。 濃い紫色のはねた髪、そこから覗く瞳の色は大地の色だ。 少年は、男の視界の横から顔を覗き込んでいた。だから男は、自分が今倒れているのだと知ることができた。 「君は…」 知らない顔だった。 いや、男の知り合いは少ない。 男の素顔を知っている人間も、生きているものは片方の手で事足りる。 ましてや、ここは男が暮らす国ではないのだから。 男に奇特どころか天然記念物級の珍しい人種だと認識された少年は、男を覗き込むのを止めて姿勢を正した。 そして本当に安心したように胸を撫で下ろして状況説明をし出した。 「貴方が倒れていたからびっくりしたんですよ?あ、今救急…」 「いや必要ない。持病なんだ。行ってもしょうがない」 男は口早に少年の行動を制した。 男の立場上、正体を晒す様な場所は絶対に出向きたくない。それに少年に言った事実で、そして病院は男にとって最も都合が悪い場所の1つだった。 今まで一度として自ら建物に近付きたいとすら思った事はない。 少年の言葉を遮った男は、ポケットの中からカプセルを取出し、飲み込んだ。 荒い息がしばらくすると正常になり、男はやっと体を持ち上げることができるようになった。 少年は気遣わしくこちらを見ているが、男にとってその視線はただ煩わしいだけだった。 「本当に、大丈夫なんですか?」 「言っただろう?持病だ」 「でも。ストライクこの人のバイタルを見てくれ」 少年は男の足元、転んだら立てなくなるような、ずんぐりむっくりのロボットを見た。 ロボットは主の命令に従い、サーチアイを輝かせ、男を上から下まで観察しだした。 そのロボットの姿を男はどこかで見た事がある気がしたが、思い出せない。 何にしても、まるで人の言うことを聞かないこの少年の方が、男の思考を大いに不愉快にさせてくれた事の方が勝った為、そんな引っかかりは瑣末なことだった。 診断が終わり、ロボットは少年を見上げる。 「血圧、心拍、呼吸数、乱レ 正常範囲内」 機械特有の平坦な音声プログラムが回答する。 少年はそれを聞き口元に手を当てた。その顔は、明らかに納得していない。 「君のロボットもそう言っているんだ。ではね。見ず知らずの私を心配してくれてありがとう」 「あ!ちょっと!」 これ以上係わり合いはごめんだ。と、男は立ち上がって表通りへと歩き出した。 しかし、少年が男の腕を掴んで行く手を阻んだ。 「悪いけど俺は信じられない!安心するまで一緒に行動させてください」 少年は変わらず、心配だと顔に張り付かせて男を見上げてくる。その目は、絶対に譲らないと語っていた。 その目が本当に不愉快で、男は苛立った。 自分のロボットに調べさせておいて、信じられないなら、何故したのか。 そして、自分はいらないと何度も暗に言っているのに、何故分からないのか。 男は間違いなく少年に対して腹を立てた。 正義感を振りかざす人間を嫌う傾向にある男は、少年に対してもはや嫌悪しか浮かばない。 「必要ないよ」 はっきりと、男は少年を拒絶した。 男の声に、明らかに苛立ちが混じっている。 通りすがりでも分かる程明瞭に感情が声音に乗っていた。 しかし、気付いていないのか、無視をしているのか、少年は怯まなかった。 「さっきみたいに倒れたらどうするんですか!」 「お節介な子だね」 とうとう、男は本性を露にした。 「必要ないと言ったんだ。放っておいてもらえるかな」 どんな人間も突き放す凍りついた視線。 侮蔑しか浮かべない固まった表情。 男は乱暴にかつ迅速に少年の手を捻り上げようと腕を回そうとして―――― 「嫌です」 しかし少年は譲らないと眼差しだけで訴えて、男の腕をさらに強く握り締め、動かなくさせた。 「俺はどんな人でも、貴方が悪人でも、仇でも、死にそうになっているのを放っておかない。 そんなこと、しない」 大地の瞳が強く奥底から光を映す。 絶対の信念と自分自身への誓い。 少年には、最も動かし辛い意思を持って動いている。 それは、男にとって最も近く、遠く、最も苦手とする部類の人間の顔だった。 どんなに傷つけても決して挫けない人間の顔だ。 「―――勝手にすればいい」 感情に任せて少年を昏倒させ、この場から離れてもよかった。 が、少年がただの一般人であることと、男がこの国のものではないこと、人通りが少なくとも街中であることが男の行動を制限させた。 捨て鉢に、男は呟いた。 「ええ」 勝手にします。 少年は笑みもせず、瞳は鋭いままに返し、男の腕を放した。 こんな少年に負けるとは・・・と、男の腹の底で屈辱が蠢いた。 さっきまで握られていた腕は、さして痛まない。乱暴にしなければ引き抜けないと思った手は、男を間違いなく気遣って握っていたのだ。 ちらりと見ると、少年は「少し遠回りするからな」と自分のロボットへ笑みを浮かべていた。 男は苦虫を噛み潰した気分になった。 「それで、どこへ行くんですか?」 「対した用ではないよ。ちょっとしたおつかいでね」 「ふぅん」 明らかにかわされたと分かっていても、少年は特に何も追及してこなかった。 単に、男のことを信用していないだけだろう。 少年にとって、赤の他人である自分の体調だけが心配なのであって、それ以外へ突っ込もうと思っていないのだろうと男は推測した。 はやくこの少年と別れてしまおう。男は足を早めて目的地を急ぐ。 少年は何も言わず、それに着いて行き、その後にロボットが続く。 もし話しかければ男はすぐにでも撒こうと決めていたが、結局そうはならなかった。 奇妙な連れ立ちはすぐに終わった。 男が待ち合わせの指定場所へ辿り着いた男は、少年を少し待たせた後、何気ない振りをして情報の提供交換を果たした。 そして、その隣にある店で適当に品物を買い、少年のところへ戻った。 「用はすんだ。君ももう帰るがいい」 どうでもいい買い物袋を見せ付けて、男は言う。 これでこの少年が納得すると男は露ほども思っていなかったが、他に追求できる確たる証拠も持ち合わせていないことも分かっているから、深く突っ込んでこないとも思っていた。 (・・・思う、だと?) 自分の思考に、男は内心で失笑した。 会って間もない、行きずりの少年に、何を知ったような気でいるのだ。 年端もない少年に、ある種の信頼を置いているような憶測をするのだ。 「帰り方、分かるんですか?」 「タクシーを拾うよ」 「大通りに行かないとありませんよ」 「それまでまだ着いてくるのかい」 「ええ」 なんて可笑しなことだろうか。 今まで人に興味を抱かなかった自分が。 抱くことすら忘れていた自分が。 たかが子供に振り回されて、許容して。 「まったく、呆れを通り越して尊敬するよ」 「誉め言葉と受け取ります」 腹立たしい程小憎らしいこの少年を、振り切ろうと思えば振り切れたものを。 自分自身の感情を持て余し、面白がって、結局男は大通りで足を捕まえるまで少年といた。 待っている間、少年はただ後ろに随い、男が煩わしくないようにい続けた。 次第に男は少年に対する感情に変化があることに気付いた。 煩わしいだけだったものに、次第に興味が湧いてくる。 「強情さに敬意を払って君の名を教えてくれないかな?」 そして別れ際、男は少年に向かってそう訪ねていた。 少年は、しばし瞬いた後素直に名乗った。 「です。・ヤマト」 そして男も、名乗る気はなかった名を名乗った。 「私はクルーゼ。さようなら。お節介な君」 ある種の敬意だ。 この自分に興味を抱かせた、そのことへ。 「さようなら、捻くれ者のクルーゼさん。気を付けて」 二人は皮肉を込めて別れの挨拶を交わし、男を乗せた車は発進した。 その車内の中で、男は少年の名を反芻してみた。 しばらく忘れられない名となるだろう。 何度か反芻して、ふと、何か記憶の片隅に引っかかるものを感じた。 (・ヤマト…どこかで…) 聞いたことがある。いや、見たのか? しばらく海馬を働かせた男は、ようやくその答えに辿り着き、ますます笑みを深くさせた。 なんという気運だろう。 男は込み上げてくる笑みが止められなくなった。 (ふふっ運命とは、実に面白いものだな) なんという数奇な偶然か。 それとも誰かが用意したシナリオか。 なんにしても男は今日という程『世界』の気まぐれを面白いと思ったことはない。 「今度は、話をしてみたいものだな」 男は心の底からそう思った。 意思を貫くあの少年の目が、真実を見たとき、どうなるのか。 自分の生い立ちを知って、あの少年がどうこの世界を見るのか、知りたくなった。 (―――また会おう・ヤマト) 次に会う時は戦場か、それともまたぬるま湯のような平和の中か。 どちらでもいい。 どちらでも同じだ。 自分と同じように、失い続ける人間が増える瞬間は、どんな状況だろうと甘美な残酷で満ち溢れている。 その鍵を握る数少ない存在である自分を、喜んだことは、男にとって初めてのことだった。 |