愛おしそうに己の腹を撫でる女と出会ったのは、ただの偶然だった。 クローンである己の体は、週ごとの検診が必要だった。 検診が終わり、己の管理者が研究者と話があるからと追い出した。 その時に、その女と出会った。 「こんにちは」 そう、穏やかに、幸福に笑う女に、私は何も返さず、白けた目で見つめ返した。 「妊娠、されているのですか?」 「いいえ。でも・・・・もう少ししたら、それも叶うわ」 女はいつまでも微笑んでいた。 それは、この建物の住人にはまったくふさわしくない、見たこともない穏やかな顔だった。 その顔が、私には無性に疎ましく、妬ましく、腹立たしかった。 「何がいいものですか」 明らかな侮蔑を持って、私は女へ切り結んだ。 だが女は、そんな言葉などなかったように、幸せに微笑むのだ。 「嬉しいのよ。だた、私が命をつくって、生み落とせるということが」 傷を負った己の腹を撫でて、幸福を語る。 一度は手放さなければならなかった願いを、再びかなえられることができる喜びを。 「ただそれだけのことが、とても幸せなのよ」 女は涙すら浮かべて、幸福を発露するのだ。 「どんな形で育っても。きっと、幸せだわ」 私はその女が憎らしく、そしてすべてを否定した。 ふざけるなと。 そんなものは幻想であり、愚行だと。 この世に幸福などありはしない。 あるものは、業の深い欲の塊だけだ。 全てを否定された私は、それが真実と知っている。 だが、女はそれでも微笑んでいた。 愚かな女は微笑み、私にありもしない祝福を与えようと手を差し伸べる。 「貴方も、生まれたことを喜んでくれる人が、きっと、いるわ」 ―――――――――――この女を殺そう。 殺意に押され、眼を見開いた時、女の姿は霧散した。 目の前にあるのは黒い天井。 明りの伴わないただの室内だった。 一瞬のうちに女の輪郭は記憶から消え、ただ己の心の中にだけ怨嗟がくすぶる。 昔の記憶、そして、夢だったとすぐに理解した。 夢から覚めた後の気分は、最低だった。 私を愛せる者などいない。 愛する者などいない。 世界など破滅するべきなのだ。 そしてその種を、私はすでに撒いた。 <引き返せない在処、振り返らずに> 電子音と人工的な空気の音。 二つの音以外には何も聞こえない。 キラはまっさらな寝台の上にさらされた手を握り締めて、死んだように眠っていた。 握っている大切な大切なも、ピクリとも動くことはない。 ――――――の一命は、取り留めることができた。 その一言を聞いて、キラは声もあげずに走り出し、医務室に飛び込みの手を握り締めて、そのまま意識を手放した。 もう二度と離れないというように。 彼の命が終わったとき、自分も追うと言わんばかりに。 命の危機に瀕している弟と、精神が参っている兄の姿に、誰もが顧慮していた。 彼らの回復を、待ち望んだ。 だが、彼らばかりに気をもむことはできない状況でもあった。 地球軍がプラントに向けて核を使用することを決定したからだ。 プラントに核を落とさないために、アークエンジェルとミネルバは動かねばならず、最大の戦力である『フリーダム』もで向かわねば歯が立たないだろう。 ただのそばでうずくまるキラを鼓舞し、強制的に戦場へ行かせたとき、誰もがキラが死ぬかもしれないと懸念した。 けれど、キラは確かに役目を果たした。 核爆弾をすべて撃ち落とし、連合にもプラントにも被害を出さず、戦いを止めた。 戦いのさなかもその前後も、キラは一言も声を漏らすことなく、戦いを止めることだけを実行していた。 まるで、そのための機械のように。 そして、戦いが終わった後はまた、元通り弟の元でうずくまる。 その姿に誰もが心が壊れたのだと感じていた。 片割れの声も、親友の声も、再び立ち上がる強さを与えた人ですら、キラの耳には届かなかった。 が死ぬときに、キラも死ぬ。 それは、誰にも止めることのない確定事項だと、誰もが確信していた。 そしてなぜか誰もが、その時世界が最悪の事態に転ぶのだと感じていた。 *** 僕は、君が「始まった」時を見ていた。 きっと意識をして思い出すことはないだろう。それくらい僕は幼く、物事の意味も理解していなかった。 「コーディネーターでなければ出産できない、か」 リビングで父さんと母さんが膝を付き合わせて、お互いの手を握っていた。 僕は1人で遊んでいたのか、何かだったんだろう。 二人の様子には気が付かず、少し離れた場所にいた。 「せめて、君に似た容姿になってほしい」 「なんだっていい。貴方の子供なんだから」 母さんの目が涙ぐみ、父さんと抱き合う。 祈りあう二人のものものしさに、幼い僕は不安になった。1人になったみたいで寂しかったんだ。 「まま、ぱぱ」 「キラ、どうした?」 抱き合う二人の膝にすがり付く。すぐに父さんが抱き上げて、母さんが額を擦り合わせて不安を取り除いてくれた。 「どうか、この子にも、幸せに」 そう言ったのは、父さんだったのか、母さんなのか。 朧で、霞にとけて、消えていく。 人の幸福はいつだって目に見えない。 あの日の僕たち家族にとって、それは、未来で出会える君だった。 ―――――――――君と出会い、迎える未来を望んでいた。 **** くるしい。 手が痛い。 足も、腹も、身体中全部が痛いか。 何もかも重くて、だるくて、徹夜明け以上に眠い。 目が覚めて、でも瞼をこじ開けることができない。酷い倦怠感に俺はまだ微睡んでいたくて、意識を手放したかった。 けれど、じわじわと蝕む全身の痛みが辛くて、どうにも眠ることが難しい。 なんでこんなことになってるんだ? うとうとしながらため息を吐き出して、うまく呼吸ができないことに気がついた。 空気が口と鼻に無理矢理当てられて苦しい。 いよいよ理性も微睡んではいられないと自覚して、俺は状況把握に目を頑張って開いた。 薄暗い。 間接証明だけがついている部屋だ。 体を起こそうとして、腹部と右腕が痛んだ。反射で息が詰まるくらいには痛い。 左腕はと持ち上げようとして、感覚がおかしいことに気付いた。 腕がゼリーにでもなったみたいに、ぶよぶよに感じる。これは、長時間圧迫された後の重度のしびれか。 左腕に視線を移す。首を動かすのも苦労した。 頭も重いし、頭痛も酷いと気がついた。 「――あぁ…」 茶色の頭が腕を潰していた。 寝息を立てているキラが、俺の手を握って、肘あたりに頭を預けていたのだ。 それを見て、なんでか胸がすく気持ちになった。 痛む右手を持ち上げて、苦労かけてその頭を撫でる。 右腕には、点滴が付いていた。 腕と手首がひきつるせいで、うまく撫でられない。手のひらを頭に添えて親指で撫でていると、キラが身じろいだ。 特に気にせずに撫でる。 うつ伏せ気味だった顔が真横に向く。見えたキラの顔は酷い隈が刻まれていた。 今まで見たこともないほど、悲惨な顔だ。 (キラ、生きてるんだな) できることなら、抱き締めてやりたい。 左腕はろくにあげられないだろうし、右腕はひきつって、まともな抱擁にはならないだろうけど。 (俺も、生きてる) じわじわと、頭が眠る前へと繋がっていく。 正しく理解すれば、傷つくだろう真実。 人を撃った痛み。その光景。 殺されそうになった、事実。 気がつけば、呼吸器に邪魔されて吸いづらい息が、喉が震えてもっと苦しくなっていた。 胸が痛い。なぜ。 どうして涙なんか溢れる。 「――――っ、はっ」 声が出せない。うまく息が吸えない。 キラから目を反らせない。 フラッシュバックする薄闇での出来事に、体が痛い。 頭痛がする。 頭の奥底で、鈍器に殴られたような痛みに襲われ、指し貫かれる痛みが体を苛む。 沸き上がる言い様のない不安感と苦痛を耐え、知らずキラの髪を強く握りしめていた。 「っ、ぐっ」 嗚咽が上がった瞬間に、まずいと思った。 駄目だ。 キラを起こす。 騒いだらいけない。 こんなにやつれてるんだ。 休ませなければ。 恐怖を飲み込んで、キラから手を離し、涙を拭った。 拭いとれない涙は顔をいつまでも濡らす。 喉の震えが収まりそうにない。 駄目だ。口を塞がないと。 マスクが邪魔だ。 無我中でマスクを外そうとするが、ずいぶんきついのか、剥がれそうにない。 イラついて耳のゴムを引っ掻いていると、するりとマスクが外れた。 顔に影が落ちる。 胸の中がひっくり返るほど驚いた。 喉は嗚咽に詰まって、何も吐き出せなかった。 泣きそうな笑顔が、目の前にあった。 目の前の人に目は釘付けられて、声は物理的にたてられなかった。喉ばかり震えて、歪な呼吸音があがる。 息が整わなくて苦しい。 滲む視界に、人の手が近づく。 その手は持っていたマスクを脇に落として、俺の頭を引き寄せた。 動かされた頭に鈍痛が走る。胸の傷がひきつってものすごく痛い。 そして、温かい。 「ひどい夢、を、見て、いたんだ」 頭の後ろから回り込んだ手が俺の頬を撫でた。 冷たいのに暖かい手に、片手ですがり付く。 「大切な人が、もういない世界」 胸は物理的なものと精神的な痛みで辛かった。 それ以上の痛みをキラが感じていると、俺は知ることになった。 「悲しくて、死にたいのに、世界はたたずっと炎ばかり増やして、たくさん死んでいくのに。 でも、僕は、いつまでも、死ねない」 俺が眠っていた間に、何が起こったのだろうか。 キラは俺が意識のない間に、いったいどんな目にあっていたのだろう。 「死ぬな、死ぬな、って―――生きてる意味が、失われていくのに、みんな、死ぬことだけ、は、ゆるして、くれなくて」 オノゴロで再開したとき以上に憔悴し、絶望した顔をしているキラ。 その目は言葉を紡ぐたびに、水面が波紋を立てるように、揺れが大きくなる。 「でも、ちゃんと、僕の生きる意味は残ってた・・・・!」 涙をぼろぼろとこぼしたキラは、俺の顔を緩く撫でる。 その目は喜びに満ちていた。 だけど、絶望に染まっていた。 俺に囚われ切って、もう逃れられない人間の顔だった。 「あ、ほ」 ああ、本当にどうしようもないな。こいつ。 「うん、そうだよ」 わかってたことだけど。 生まれたときから、ずっと見てたから、わかってたけどさ。 「ば、か、が」 喜ぶなよ。 「嬉しい、なあ」 俺なんかよりもっと、大切なもの、たくさん、作ってくれよ。 「き、ら」 でも、俺もたいがい、同じかそれ以上の馬鹿だ。 「もっと、呼んで」 それが、うれしくてうれしくて、ずっと俺のものでいてほしいと思ってしまう。 業が深いにもほどがある。 「ご、めん」 口から出た謝罪は、心からのものだった。 「うん」 それを、キラは心底嬉しそうに受け止めた。 「なくな」 「が泣かなくなったら、きっと止まるよ」 それは、無理だ。 だって、何が原因で泣いているのかもうわからない。 「死ぬ、とか、いうな」 「も、もう、死にそうにならないで!」 やっと、キラが叫んだ。 「おいっ・・・・て、・・・・い・・か・な・・ぃ・・・・で・・・・・・」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・き、ら」 ボロボロの2人が、お互いを失いたくなくて、懇願する。 置いていかない。 置き去りにされたりしない。 してほしくない。 ヘリオポリスの事件の痛みを思い出す。 置いていかれる悲しさを、苦しみをもう、俺たちはお互いに味わいたくないし、あわせたくない。 どこもかしこも痛む体を無理に起こして、キラの首に腕を回して近付ける。 紫色の瞳の縁に口付けて、顔をたどって唇を合わせた。 言葉より何より伝わると思った。 俺は、お前とどこにだって一緒に行く。 キラの唇が震えだした。 スタート音を聞いたランナーのような勢いで、唇を噛み付かれた。 それに応じるために、俺も口を開ける。 怪我も、容態も、お互いの何も考えず、ただ気がすむまで二人で貪りあった。 死にかけたこと、自分たちが今生きていることを、どこまでも刻み付けたかった。 |